『オルト・エウレカで厄介な罠を踏んだ』と冒険者からリンクパール通信が入った。
グ・ラハは仕事を中断し、大慌てでモードゥナに飛ぶ。息を切らせながら八剣士の前庭までたどり着くと、難しい顔をしたノアと……一匹の大きな獣が佇んでいた。
意志の強い澄んだ空色の瞳に、右の眼窩についた傷。間違いなくこの獣は冒険者である、とグ・ラハは直感した。
オルト・エウレカ内の形態変化の罠にかかってしまったのだろう。しかし、少し待てば変化は元に戻るはずだ。それが外に出た今も継続している。確かに、厄介なことになっていると一瞬のうちに思考を駆け巡らせた。
変化してしまった冒険者は、ドマで見た人狼族に近い風貌になっていた。全身が焦茶色の体毛に覆われ、身長はロスガルと同じくらい。牙は鋭く大きく発達しており、口を閉じた状態でも一部が見える。また、人狼族とは違い脚から下は完全に狼のそれであった。
踵が地についていないためか、こちらに歩み寄ってくる足音は巨躯の割にカリカリとごく小さいもので、威圧感はない。
「え……ええと、すまない。遅くなった。あんた……で、いいんだよな?」
グ・ラハはいつもよりぐっと首を上に向け、冒険者に話しかける。紅血の魔眼が薄青の眼を捉えた瞬間、冒険者はびくりと身体を震わせ頭を抱えてしまった。
「うッ……!?」
「大丈夫か!? どこか痛んだりするのか!?」
グ・ラハがうろたえていると、冒険者がぐるるとひと唸りあげた。そしてグ・ラハの前で片膝をつき、深く頭を垂れた。
「………ゴ命令ヲ、殿下」
「は…………?」
グ・ラハは大いに困惑し、助けを求めるようにノアを見た。彼女は軽く顎を摩りながら、傅いたままの冒険者をじっと観察している。
「どうやら、変化術に加えて洗脳も仕込まれていたようだな。わらわに対して作動しなかったのを鑑みるに、アラグ皇族への服従命令が差し込まれるといったところか。……お前が何か命令してやらないと、指一本も動かせないだろう」
「命令、と言われても」
グ・ラハは冒険者と出逢ってから幾度となく彼に頼み事をしてきた。けれど命令はしたことがないし、したいと思ったこともない。
思考が鈍り、腹の底がじりじりと灼ける想いがする。冒険者には自分の意思で、自由に選択をしてほしいと願うグ・ラハにとって、命令は最もしたくないことの一つだった。
それでも、彼を助けるためにはやらなければならない。
グ・ラハは一度深呼吸してから、冒険者と同じように片膝を地に着けて屈む。そして彼を下から覗き込みながら声をかけた。
「どうか、顔を上げて楽にしてくれ。オレに対して畏まらなくていい。いつも通り接してくれると助かる」
固く目を閉じ微動だにしなかった冒険者は、ゆっくりと顔を上げグ・ラハと向き合った。
「……ありがとう。仕事忙しいだろうに、面倒かけてすまん」
冒険者は眦と耳を下げ、申し訳なさそうにぽりぽりと頭を掻いている。見た目こそ大きく変わっているが、彼の優しい眼差しと仕草はそのままだった。グ・ラハはほっと息をついた。
「……言いたいことはいろいろあるが、まずはあんたを元に戻さないとな。オレが直接呼び出されたってことは、皇血の力が必要なのか?」
「それは、わらわから説明しよう」
ノアの分析結果を要約すると、この罠に仕込まれた術式の解除は、皇血を持つものにしか許可されていないとのことだった。これがグ・ラハが呼ばれた理由だ。
また、この術式は対象者のエーテルに擬態して自己増殖を繰り返すようだ。ゆえに、発見と駆除に時間がかかる。放っておくと術式にエーテルを全て書き換えられ、アラグ皇族に忠実な兵士にされてしまうだろう。
幸いなことに、冒険者が持つ光の加護の力で増殖速度が抑えられていた。今から対処を行なっていけば数日で解除ができ、大事には至らないとの見立てであった。
一瞬の接触で発動する罠にしては異様なほど高度な技術であり、『どこぞの陰湿小僧が憂さ晴らしに仕組んだのだろうよ』と最後にノアはぼやいていた。
「となると、泊まり込みで解除する必要がありそうだな」
「可能性は低いが、まだ妙な仕込みが残っているとも限らん。人の来ないクリスタルタワーの中で解除するのが良いだろう」
「わかった。……それじゃあ、モードゥナで買い出ししてく……うわっ!?」
先ほどまで大人しく話を聞いていた冒険者が、突然グ・ラハをひょいと横抱きにして持ち上げた。
彼のたっぷりとした胸の毛がグ・ラハをふんわりと包む。腕の逞しさ、暖かさと体毛の心地良さに一瞬身を委ねそうになった。我に返って冒険者の顔を見上げると、当の本人も戸惑っているようだった。
「すまん、体が勝手に、……殿下ニ肉体労働ナド不要ッ!」
「本当に厄介な罠だな……」
待っていろと命令すれば解放して貰えるだろうが、グ・ラハとしてはその強制力を極力使いたくなかった。
仕方なくタタルに連絡し、数日分の食料と寝具、そして術式の解除に必要なエーテル計測器を手配してもらうことにした。
届いた物資は、グ・ラハを制止して冒険者が全てシルクスの塔に運び込んだ。術式の影響もあるが、『せめてこれくらいは俺に任せてくれ』という本人の希望でもあった。
その間グ・ラハはノアから術式のエーテル擬態の見分け方を詳しく教えてもらい、解除に取り掛かる準備が整った。
「では、健闘を祈っているぞ」
「ありがとう、ノア。……図々しいようだが、解除を手伝ってもらうことは難しいだろうか?」
ノアにはすでに充分手助けをしてもらった。けれど、一刻も早く冒険者を助け出したいという想いからグ・ラハは彼女に尋ねた。
「夜更かしは美肌の天敵であろう? ……というのは冗談として、ここから先わらわにできることは殆どない。それに、コーへの負担も考えるとつきっきりは難しくてな。わらわの知識が必要となれば呼んでくれ」
解除作業は、グ・ラハにとって最も集中しやすい場所――第一世界のクリスタルタワーでいうところの深慮の間にあたる部屋で行うことになった。
大量の本が散乱していない分広く感じるそこで、ふたり向き合って座り込む。
「じゃあ、早速やっていくぞ」
「ああ、頼む」
グ・ラハはエーテル計測器を装着し、レンズ越しに目の前の冒険者のエーテルを視る。
彼のエーテルは瞳の色をさらに濃くしたような、力強い夏空の青だった。
冒険者に近づき目を凝らすと、くすんだ白がまだら状になっている部分があった。ノアによると、これが術式による擬態の特徴らしい。まだら模様は、全身に散らばっていた。
まずは腹部のそれにそっと手で触れる。自身のエーテルを流し込むと、紅く変色しアラグ様式の幾何学的な紋様が浮かび上がった。
「痛いとか、気分が悪いとかはないか?」
「大丈夫だ」
「わかった。……解除してみる」
念を込めながら再び術式にエーテルを流す。すると紋様はさっと消え去り、元の美しい青を取り戻すことができた。
手を止めてしばらく冒険者の様子を伺ったが、急変は見られない。グ・ラハはふうっと安堵の息を漏らした。
「解除に反応する仕込みはなかったみたいだ。よかった……あとはこれを繰り返していくだけだ」
「面倒かける」
「なに、賢人位のレポートやセツルメントからの報告を延々処理するよりよっぽど楽な作業だよ」
グ・ラハがおどけて言うと、冒険者は軽く肩を竦め『ほんと、お前には敵わないな』と言いながら目を細めていた。
それからグ・ラハは、黙々と解除をすすめていった。術式に触れ、エーテルを流し、解除という手順を繰り返す。
しばらくすると、グ・ラハの頭上でゴロゴロという音が聞こえ始めた。冒険者に異変が起きたのかと慌てて顔を上げると、彼は口と目元を弛緩させ実に心地良さそうにしていた。
今の冒険者はヒューランの姿より表情が読みにくいが、あからさまに上機嫌だった。尾もぱたぱたと左右に忙しなく動いている。
「……いや、なんかお前に触られてると勝手に鳴るんだよ、喉が」
彼に不快な思いをさせるよりずっと良いが、俄かに照れくささが湧き上がる。冒険者に負けず劣らず、グ・ラハの尻尾もはためいた。
上気した頬を冷ますべく、グ・ラハは一報を受けた時から考えていたことを切り出した。
「……やっぱり、すぐにでもオルト・エウレカを封印するべきじゃないか?」
今回の罠は、光の加護を持つ冒険者と皇血を受け継ぐグ・ラハでなければ、まず助からなかった。
冒険者は深層に挑んでいる最中だと言っていたが、あまりにも危険すぎるのではないか。
解除の手は止めず、けれど真剣にグ・ラハは冒険者を説き伏せようと言葉を尽くす。
冒険者から、先ほどまでの緩んだ表情は消えていた。グ・ラハの話を遮ることなく最後まで聞いたあと、彼は静かに、きっぱりと答えを告げた。
「グ・ラハの言うことはもっともだ。……けど、ごめん」
「……………そう言うと思ったよ」
彼は、生粋の冒険者だ。全てを目にするまでその歩みを止めることはないだろう。
少し前、天の果てでグ・ラハも同じ言葉を口にした。だからわかる。けれど、楔を打ち込みたかった。
「あんたの命が何よりも大切なんだ。何度も言うが、本当に危ないと思ったら、迷わず引き返してくれ」
「ああ。……お前に泣かれるようなことにはならないようにするよ」
いつもより大きく毛深いふかふかとした手がグ・ラハの頭をすっぽりと覆った。忘れていた恥ずかしさがぶり返す。
「ッ……封印しない代わりに、深層でのことたっぷり聞かせてもらうからな!」
「もちろんいいぞ。……グ・ラハは知ってたか? 草木一本生えないオルト・エウレカに、バナナを食うやつがいるってことを……」
冒険者の話を聞きながらの解除作業は、あっという間に時が過ぎていった。持ち込んだ時計を見ると、深夜二時を指している。
グ・ラハが一つあくびをすると、冒険者がびくりと身を震わせた。
「殿下、睡眠ヲ」
「いや、あと二時間はいけるから……おわっ!?」
「睡眠不足ハ殿下ヲ害スル朝敵ッ!!」
術に操られた冒険者からエーテル計測器を取り上げられてしまった。
「俺もそろそろ寝たほうがいいと思ってたぞ」
「うう、二対一か……」
まだまだ解除するべき術式の数は多いが、増殖速度は二〜三時間に一つ増える程度である。これなら朝まで眠っても問題なさそうだ。グ・ラハは素直に提言を受け入れることにした。
寝具を広げグ・ラハは横になろうとしたが、冒険者はなぜか座り込んだままこちらをじっと見ている。
やり忘れたことがあるのかと尋ねると、豊富な胸の毛を見せつけるように両手を広げた冒険者にグ・ラハは問いかけられた。
「今の俺にしかできないことがあると思わないか?」
「え」
「ご命令を、殿下」
冒険者の目が完全に笑っている。罠の解除をしながら、密かに彼のもふもふとした手触りを堪能していたことがバレていたのだろう。
グ・ラハは耳と尾をぶるぶる震わせたあと、蚊の鳴くような小さな声で言った。
「……これは命令ではなく、あくまで頼みごとだから……嫌なら断って欲しいんだが。…………ええと、その。今のあんたに埋もれて寝てみたい……」
「ふはっ……殿下の仰せのままに!」
予想通りの希望を聞き届けて上機嫌に尾を振り回す冒険者に抱えられながら、グ・ラハは寝具に転がった。
大きくなった彼の身体に、頭から足先まで完全に覆われてしまった。長めの彼の毛は保温性に優れており、布団を被る必要がないくらい全身がぽかぽかとする。
「うあ、すご、柔らか……あったか……ッ!」
獣に変化した冒険者の毛並みは、ヒューランの時の髪質に似ていた。ややごわついているが決して硬くはなく、ふわりとグ・ラハを包み込む。思い切って胸元に顔を埋めると、いつもの彼に獣のそれが混じった匂いが鼻腔いっぱいに広がった。
「臭くねえか?」
「いや……全然平気……むしろちょっと癖になるかもしれない……」
なんだそりゃ、と笑いながら冒険者はグ・ラハの背を労わるように摩った。
鋭い爪で傷つけまいとする慎重で繊細な手つきに、胸の内側まで温まる心地がする。
「おやすみ……」
もっとこの感触を味わっていたいという想いは至上の心地よさに負け、グ・ラハはすとんと眠りに落ちていった。
次の日も、ひたすらに罠の解除を進めていく。
冒険者に携帯食を口に突っ込まれながらグ・ラハは手を動かし続け、あっという間に夜になった。
あと少しで全て解除できるとなったところで、冒険者がいきなり立ち上がった。
「……匂う。外に、誰かいる」
狼に近い形態ゆえか、嗅覚が非常に鋭くなっているのだろう。冒険者は鼻をひくひくとさせている。
時刻は二十二時を過ぎている。聖コイナク財団の調査員とは考えにくい。
「結界があるから塔の中に侵入されることはないと思うが……一応、様子だけ見に行ってみるか」
グ・ラハと冒険者は塔の入り口まで降り、静かに扉を開けて外の様子を伺った。
扉から少し離れたところで、二人組の男が塔の周りを物色していた。身なりから察するに、おそらく盗賊の類だろう。
「クソッ! アラグ帝国の遺産だっていうから期待したのに、扉は開かねえし他に何もねえッ……ふざけんな!」
盗賊のひとりが腹いせに塔の壁を蹴った瞬間、冒険者は硬直した。グ・ラハがまずい、と思った瞬間にはもう遅かった。
「不敬ッ!!」
「誰だ……うわあっ!?」
目にも止まらぬ速さで冒険者が外に飛び出した。そして壁を蹴った盗賊に飛び掛かり、馬乗りになる。
大きく発達した牙を剥き出しにして、盗賊の喉元に今にも食いかからんと大きく口を開けた。このままでは冒険者が要らぬ血で汚れてしまう。
「くっ……! ダメだ! 止まれッ!!」
グ・ラハの命令で冒険者の動きがびたりと止まった。凶行を防ぐことができた安堵と、彼に強制力を使ってしまったという申し訳なさがない混ぜになって涙の膜が厚くなる。
「そっちのチビを狙え!」
冒険者に拘束されていた盗賊が叫び、もうひとりの格闘士風の盗賊がグ・ラハに襲いかかってきた。とっさのことに対応が遅れ、もはや受け身を取ることしかできないとグ・ラハが構えた、その時。
「殿下ニ……手を出すなッ!!」
服従命令を跳ね除け、冒険者がグ・ラハを庇う。腹に拳を受けた冒険者は、膝をついてしまった。
「この犬っコロが!!」
解放された盗賊は双剣を抜き冒険者に切りかかろうとしたが、それは叶わなかった。突然黒い重力が盗賊の四肢にまとわりつき、べしゃりと地面に縫いつけられる。格闘士風の盗賊も、同じ有様になっていた。
地に臥した盗賊たちが目にしたのは、闇夜に浮かび上がる、血の色をした紅い瞳だった。
「これ以上彼を傷つけるな。……ここは立ち入り禁止だ。何も盗んでいないのなら見逃す。出ていってくれ」
盗賊たちを追い払い、二人は部屋に戻った。
負傷した冒険者に癒しの術をかけた後作業を再開し、グ・ラハは残りの罠を全て解除することができた。
「……解けないな、変化」
冒険者の姿は変わらず、獣のままであった。グ・ラハはもう一度エーテル計測器で確認するが、術式が残っているようには見えなかった。
「一晩様子を見て、戻らなかったらノアに相談してみよう」
「だな。……とりあえず、お疲れ様。今日も『ここ』で寝るか?」
冒険者がぽふぽふと自身の胸を叩く。即答するのも気恥ずかしく悩むふりをしたが、グ・ラハの心は最初から決まっていた。
「……よろしく、たのむ」
昨日と同じく、冒険者に全身を包まれながら横になる。
「怪我は痛まないか?」
グ・ラハは気遣うように冒険者の腹を撫でる。それが快かったのか、彼の喉はごろごろと気分良さそうに鳴った。
「ああ。もうなんともないぞ」
「よかった……。にしても、やっぱりあんたはすごいな。術を破って動けるなんてさ」
アラグの洗脳は強力だ。冒険者の精神力に改めて感心した。なにより、グ・ラハが忌避していた強制力に打ち勝ってくれたことが嬉しかった。
「さっきのは、まあ、同じ想いだったからな」
冒険者の言葉の意味を捉えてかねてグ・ラハが首を傾げると、べろりと彼の大きな舌で頬を舐められた。
「わっ、ちょっ、あんた獣に寄りすぎてないか!?」
「ん、そうかもな。感謝の印だと思って受け取ってくれ」
そう言いながら丁寧に何度も顔を舐められる。嫌な気はしないので、グ・ラハはしばらくされるがままになっていた。
しかし下顎から首の境目までを彼の長くて大きな舌で一気に舐め上げられた時、尻尾の付け根からぞわぞわとした感覚が湧き上がった。心拍数が一気に上がる。これが何なのか思い至る前に、冒険者を止めないとまずいことになりそうだった。
「ッ、もう、十分受け取ったからっ……!」
「なんだ、もういいのか」
残念そうにしながらも冒険者はグ・ラハを解放した。
『元の姿に戻った後、獣の仕草をしないよう気をつけた方が良いぞ』とグ・ラハはため息をつきながら彼に言い含めた。
「……グ・ラハ。改めて、ありがとう。それと、手間かけさせて悪かった」
感謝と謝罪の言葉と共に腰を引き寄せられ、彼の鼻先が目の前に迫る。
考えるより先に、体が動いていた。
グ・ラハは先ほどのお返しとばかりに冒険者の湿った鼻をぺろりと舐め、いちばんの笑顔を見せた。
「いいんだ。久しぶりにあんたとずっと一緒にいられて、嬉しかった」
ちょっと不謹慎だけどな、と早口で付け足し、冒険者の胸元に熱くなった顔を埋めた。
穏やかな笑い声とともに、冒険者のふさふさとした尾がグ・ラハの尾に触れた。グ・ラハは応えるように尾を絡ませる。
ふたりは互いの体温を感じながら眠りについた。
翌朝。グ・ラハが目を覚ますと、眼前に肌色の逞しい胸板が飛び込んできた。
「は……!?」
がばりと飛び起き、改めて隣を見る。そこには、一糸纏わぬ姿の冒険者が横たわっていた。
通常であれば、変化が解けた後は装備や服も一緒に戻るはずである。それが解除後全て失われるという仕込みに、この罠を作ったどこぞの天才科学者の意地の悪さが窺えた。
グ・ラハは慌てて冒険者を起こし、現状を説明する。彼は掛け布団を腰に巻きつけ、『外に出てから解けなくて良かったな』と苦笑していた。
「あんたはここで待っててくれ。間に合わせになるがモードゥナで服を買ってくる」
そう言った後しばし様子を見たが、先日のように冒険者がグ・ラハを制止することはなかった。洗脳効果も完全に解除されているようだ。
「うん、ノアに相談する必要はなさそうだ。本当に良かった……」
その後服を調達し、冒険者と共に塔を出てノアに報告と協力への礼を済ませた。今朝のことを話すと、彼女はからからと笑っていた。
そうして、日常に戻る時がきた。
「……オレはオールド・シャーレアンに戻るけど、あんたはこれからどうんだ?」
「そうだな……なくなっちまった分の装備を調達したら、またオルト・エウレカに潜るかな」
とんでもない目に遭ったというのに、昨日の今日で挑むのか。そんな冒険者に呆れ半分、尊敬半分の気持ちでグ・ラハは曖昧に笑った。
「今度は変な罠踏むなよな」
「ああ、しっかり壁際を歩いていくよ」
それじゃあ、と手を挙げふたりはそれぞれの道を歩き始める。
グ・ラハは振り返り、自由を纏った冒険者が軽い足取りで前に進んでいくさまを、微笑みながらしばらく見つめていた。
グ・ラハは仕事を中断し、大慌てでモードゥナに飛ぶ。息を切らせながら八剣士の前庭までたどり着くと、難しい顔をしたノアと……一匹の大きな獣が佇んでいた。
意志の強い澄んだ空色の瞳に、右の眼窩についた傷。間違いなくこの獣は冒険者である、とグ・ラハは直感した。
オルト・エウレカ内の形態変化の罠にかかってしまったのだろう。しかし、少し待てば変化は元に戻るはずだ。それが外に出た今も継続している。確かに、厄介なことになっていると一瞬のうちに思考を駆け巡らせた。
変化してしまった冒険者は、ドマで見た人狼族に近い風貌になっていた。全身が焦茶色の体毛に覆われ、身長はロスガルと同じくらい。牙は鋭く大きく発達しており、口を閉じた状態でも一部が見える。また、人狼族とは違い脚から下は完全に狼のそれであった。
踵が地についていないためか、こちらに歩み寄ってくる足音は巨躯の割にカリカリとごく小さいもので、威圧感はない。
「え……ええと、すまない。遅くなった。あんた……で、いいんだよな?」
グ・ラハはいつもよりぐっと首を上に向け、冒険者に話しかける。紅血の魔眼が薄青の眼を捉えた瞬間、冒険者はびくりと身体を震わせ頭を抱えてしまった。
「うッ……!?」
「大丈夫か!? どこか痛んだりするのか!?」
グ・ラハがうろたえていると、冒険者がぐるるとひと唸りあげた。そしてグ・ラハの前で片膝をつき、深く頭を垂れた。
「………ゴ命令ヲ、殿下」
「は…………?」
グ・ラハは大いに困惑し、助けを求めるようにノアを見た。彼女は軽く顎を摩りながら、傅いたままの冒険者をじっと観察している。
「どうやら、変化術に加えて洗脳も仕込まれていたようだな。わらわに対して作動しなかったのを鑑みるに、アラグ皇族への服従命令が差し込まれるといったところか。……お前が何か命令してやらないと、指一本も動かせないだろう」
「命令、と言われても」
グ・ラハは冒険者と出逢ってから幾度となく彼に頼み事をしてきた。けれど命令はしたことがないし、したいと思ったこともない。
思考が鈍り、腹の底がじりじりと灼ける想いがする。冒険者には自分の意思で、自由に選択をしてほしいと願うグ・ラハにとって、命令は最もしたくないことの一つだった。
それでも、彼を助けるためにはやらなければならない。
グ・ラハは一度深呼吸してから、冒険者と同じように片膝を地に着けて屈む。そして彼を下から覗き込みながら声をかけた。
「どうか、顔を上げて楽にしてくれ。オレに対して畏まらなくていい。いつも通り接してくれると助かる」
固く目を閉じ微動だにしなかった冒険者は、ゆっくりと顔を上げグ・ラハと向き合った。
「……ありがとう。仕事忙しいだろうに、面倒かけてすまん」
冒険者は眦と耳を下げ、申し訳なさそうにぽりぽりと頭を掻いている。見た目こそ大きく変わっているが、彼の優しい眼差しと仕草はそのままだった。グ・ラハはほっと息をついた。
「……言いたいことはいろいろあるが、まずはあんたを元に戻さないとな。オレが直接呼び出されたってことは、皇血の力が必要なのか?」
「それは、わらわから説明しよう」
ノアの分析結果を要約すると、この罠に仕込まれた術式の解除は、皇血を持つものにしか許可されていないとのことだった。これがグ・ラハが呼ばれた理由だ。
また、この術式は対象者のエーテルに擬態して自己増殖を繰り返すようだ。ゆえに、発見と駆除に時間がかかる。放っておくと術式にエーテルを全て書き換えられ、アラグ皇族に忠実な兵士にされてしまうだろう。
幸いなことに、冒険者が持つ光の加護の力で増殖速度が抑えられていた。今から対処を行なっていけば数日で解除ができ、大事には至らないとの見立てであった。
一瞬の接触で発動する罠にしては異様なほど高度な技術であり、『どこぞの陰湿小僧が憂さ晴らしに仕組んだのだろうよ』と最後にノアはぼやいていた。
「となると、泊まり込みで解除する必要がありそうだな」
「可能性は低いが、まだ妙な仕込みが残っているとも限らん。人の来ないクリスタルタワーの中で解除するのが良いだろう」
「わかった。……それじゃあ、モードゥナで買い出ししてく……うわっ!?」
先ほどまで大人しく話を聞いていた冒険者が、突然グ・ラハをひょいと横抱きにして持ち上げた。
彼のたっぷりとした胸の毛がグ・ラハをふんわりと包む。腕の逞しさ、暖かさと体毛の心地良さに一瞬身を委ねそうになった。我に返って冒険者の顔を見上げると、当の本人も戸惑っているようだった。
「すまん、体が勝手に、……殿下ニ肉体労働ナド不要ッ!」
「本当に厄介な罠だな……」
待っていろと命令すれば解放して貰えるだろうが、グ・ラハとしてはその強制力を極力使いたくなかった。
仕方なくタタルに連絡し、数日分の食料と寝具、そして術式の解除に必要なエーテル計測器を手配してもらうことにした。
届いた物資は、グ・ラハを制止して冒険者が全てシルクスの塔に運び込んだ。術式の影響もあるが、『せめてこれくらいは俺に任せてくれ』という本人の希望でもあった。
その間グ・ラハはノアから術式のエーテル擬態の見分け方を詳しく教えてもらい、解除に取り掛かる準備が整った。
「では、健闘を祈っているぞ」
「ありがとう、ノア。……図々しいようだが、解除を手伝ってもらうことは難しいだろうか?」
ノアにはすでに充分手助けをしてもらった。けれど、一刻も早く冒険者を助け出したいという想いからグ・ラハは彼女に尋ねた。
「夜更かしは美肌の天敵であろう? ……というのは冗談として、ここから先わらわにできることは殆どない。それに、コーへの負担も考えるとつきっきりは難しくてな。わらわの知識が必要となれば呼んでくれ」
解除作業は、グ・ラハにとって最も集中しやすい場所――第一世界のクリスタルタワーでいうところの深慮の間にあたる部屋で行うことになった。
大量の本が散乱していない分広く感じるそこで、ふたり向き合って座り込む。
「じゃあ、早速やっていくぞ」
「ああ、頼む」
グ・ラハはエーテル計測器を装着し、レンズ越しに目の前の冒険者のエーテルを視る。
彼のエーテルは瞳の色をさらに濃くしたような、力強い夏空の青だった。
冒険者に近づき目を凝らすと、くすんだ白がまだら状になっている部分があった。ノアによると、これが術式による擬態の特徴らしい。まだら模様は、全身に散らばっていた。
まずは腹部のそれにそっと手で触れる。自身のエーテルを流し込むと、紅く変色しアラグ様式の幾何学的な紋様が浮かび上がった。
「痛いとか、気分が悪いとかはないか?」
「大丈夫だ」
「わかった。……解除してみる」
念を込めながら再び術式にエーテルを流す。すると紋様はさっと消え去り、元の美しい青を取り戻すことができた。
手を止めてしばらく冒険者の様子を伺ったが、急変は見られない。グ・ラハはふうっと安堵の息を漏らした。
「解除に反応する仕込みはなかったみたいだ。よかった……あとはこれを繰り返していくだけだ」
「面倒かける」
「なに、賢人位のレポートやセツルメントからの報告を延々処理するよりよっぽど楽な作業だよ」
グ・ラハがおどけて言うと、冒険者は軽く肩を竦め『ほんと、お前には敵わないな』と言いながら目を細めていた。
それからグ・ラハは、黙々と解除をすすめていった。術式に触れ、エーテルを流し、解除という手順を繰り返す。
しばらくすると、グ・ラハの頭上でゴロゴロという音が聞こえ始めた。冒険者に異変が起きたのかと慌てて顔を上げると、彼は口と目元を弛緩させ実に心地良さそうにしていた。
今の冒険者はヒューランの姿より表情が読みにくいが、あからさまに上機嫌だった。尾もぱたぱたと左右に忙しなく動いている。
「……いや、なんかお前に触られてると勝手に鳴るんだよ、喉が」
彼に不快な思いをさせるよりずっと良いが、俄かに照れくささが湧き上がる。冒険者に負けず劣らず、グ・ラハの尻尾もはためいた。
上気した頬を冷ますべく、グ・ラハは一報を受けた時から考えていたことを切り出した。
「……やっぱり、すぐにでもオルト・エウレカを封印するべきじゃないか?」
今回の罠は、光の加護を持つ冒険者と皇血を受け継ぐグ・ラハでなければ、まず助からなかった。
冒険者は深層に挑んでいる最中だと言っていたが、あまりにも危険すぎるのではないか。
解除の手は止めず、けれど真剣にグ・ラハは冒険者を説き伏せようと言葉を尽くす。
冒険者から、先ほどまでの緩んだ表情は消えていた。グ・ラハの話を遮ることなく最後まで聞いたあと、彼は静かに、きっぱりと答えを告げた。
「グ・ラハの言うことはもっともだ。……けど、ごめん」
「……………そう言うと思ったよ」
彼は、生粋の冒険者だ。全てを目にするまでその歩みを止めることはないだろう。
少し前、天の果てでグ・ラハも同じ言葉を口にした。だからわかる。けれど、楔を打ち込みたかった。
「あんたの命が何よりも大切なんだ。何度も言うが、本当に危ないと思ったら、迷わず引き返してくれ」
「ああ。……お前に泣かれるようなことにはならないようにするよ」
いつもより大きく毛深いふかふかとした手がグ・ラハの頭をすっぽりと覆った。忘れていた恥ずかしさがぶり返す。
「ッ……封印しない代わりに、深層でのことたっぷり聞かせてもらうからな!」
「もちろんいいぞ。……グ・ラハは知ってたか? 草木一本生えないオルト・エウレカに、バナナを食うやつがいるってことを……」
冒険者の話を聞きながらの解除作業は、あっという間に時が過ぎていった。持ち込んだ時計を見ると、深夜二時を指している。
グ・ラハが一つあくびをすると、冒険者がびくりと身を震わせた。
「殿下、睡眠ヲ」
「いや、あと二時間はいけるから……おわっ!?」
「睡眠不足ハ殿下ヲ害スル朝敵ッ!!」
術に操られた冒険者からエーテル計測器を取り上げられてしまった。
「俺もそろそろ寝たほうがいいと思ってたぞ」
「うう、二対一か……」
まだまだ解除するべき術式の数は多いが、増殖速度は二〜三時間に一つ増える程度である。これなら朝まで眠っても問題なさそうだ。グ・ラハは素直に提言を受け入れることにした。
寝具を広げグ・ラハは横になろうとしたが、冒険者はなぜか座り込んだままこちらをじっと見ている。
やり忘れたことがあるのかと尋ねると、豊富な胸の毛を見せつけるように両手を広げた冒険者にグ・ラハは問いかけられた。
「今の俺にしかできないことがあると思わないか?」
「え」
「ご命令を、殿下」
冒険者の目が完全に笑っている。罠の解除をしながら、密かに彼のもふもふとした手触りを堪能していたことがバレていたのだろう。
グ・ラハは耳と尾をぶるぶる震わせたあと、蚊の鳴くような小さな声で言った。
「……これは命令ではなく、あくまで頼みごとだから……嫌なら断って欲しいんだが。…………ええと、その。今のあんたに埋もれて寝てみたい……」
「ふはっ……殿下の仰せのままに!」
予想通りの希望を聞き届けて上機嫌に尾を振り回す冒険者に抱えられながら、グ・ラハは寝具に転がった。
大きくなった彼の身体に、頭から足先まで完全に覆われてしまった。長めの彼の毛は保温性に優れており、布団を被る必要がないくらい全身がぽかぽかとする。
「うあ、すご、柔らか……あったか……ッ!」
獣に変化した冒険者の毛並みは、ヒューランの時の髪質に似ていた。ややごわついているが決して硬くはなく、ふわりとグ・ラハを包み込む。思い切って胸元に顔を埋めると、いつもの彼に獣のそれが混じった匂いが鼻腔いっぱいに広がった。
「臭くねえか?」
「いや……全然平気……むしろちょっと癖になるかもしれない……」
なんだそりゃ、と笑いながら冒険者はグ・ラハの背を労わるように摩った。
鋭い爪で傷つけまいとする慎重で繊細な手つきに、胸の内側まで温まる心地がする。
「おやすみ……」
もっとこの感触を味わっていたいという想いは至上の心地よさに負け、グ・ラハはすとんと眠りに落ちていった。
次の日も、ひたすらに罠の解除を進めていく。
冒険者に携帯食を口に突っ込まれながらグ・ラハは手を動かし続け、あっという間に夜になった。
あと少しで全て解除できるとなったところで、冒険者がいきなり立ち上がった。
「……匂う。外に、誰かいる」
狼に近い形態ゆえか、嗅覚が非常に鋭くなっているのだろう。冒険者は鼻をひくひくとさせている。
時刻は二十二時を過ぎている。聖コイナク財団の調査員とは考えにくい。
「結界があるから塔の中に侵入されることはないと思うが……一応、様子だけ見に行ってみるか」
グ・ラハと冒険者は塔の入り口まで降り、静かに扉を開けて外の様子を伺った。
扉から少し離れたところで、二人組の男が塔の周りを物色していた。身なりから察するに、おそらく盗賊の類だろう。
「クソッ! アラグ帝国の遺産だっていうから期待したのに、扉は開かねえし他に何もねえッ……ふざけんな!」
盗賊のひとりが腹いせに塔の壁を蹴った瞬間、冒険者は硬直した。グ・ラハがまずい、と思った瞬間にはもう遅かった。
「不敬ッ!!」
「誰だ……うわあっ!?」
目にも止まらぬ速さで冒険者が外に飛び出した。そして壁を蹴った盗賊に飛び掛かり、馬乗りになる。
大きく発達した牙を剥き出しにして、盗賊の喉元に今にも食いかからんと大きく口を開けた。このままでは冒険者が要らぬ血で汚れてしまう。
「くっ……! ダメだ! 止まれッ!!」
グ・ラハの命令で冒険者の動きがびたりと止まった。凶行を防ぐことができた安堵と、彼に強制力を使ってしまったという申し訳なさがない混ぜになって涙の膜が厚くなる。
「そっちのチビを狙え!」
冒険者に拘束されていた盗賊が叫び、もうひとりの格闘士風の盗賊がグ・ラハに襲いかかってきた。とっさのことに対応が遅れ、もはや受け身を取ることしかできないとグ・ラハが構えた、その時。
「殿下ニ……手を出すなッ!!」
服従命令を跳ね除け、冒険者がグ・ラハを庇う。腹に拳を受けた冒険者は、膝をついてしまった。
「この犬っコロが!!」
解放された盗賊は双剣を抜き冒険者に切りかかろうとしたが、それは叶わなかった。突然黒い重力が盗賊の四肢にまとわりつき、べしゃりと地面に縫いつけられる。格闘士風の盗賊も、同じ有様になっていた。
地に臥した盗賊たちが目にしたのは、闇夜に浮かび上がる、血の色をした紅い瞳だった。
「これ以上彼を傷つけるな。……ここは立ち入り禁止だ。何も盗んでいないのなら見逃す。出ていってくれ」
盗賊たちを追い払い、二人は部屋に戻った。
負傷した冒険者に癒しの術をかけた後作業を再開し、グ・ラハは残りの罠を全て解除することができた。
「……解けないな、変化」
冒険者の姿は変わらず、獣のままであった。グ・ラハはもう一度エーテル計測器で確認するが、術式が残っているようには見えなかった。
「一晩様子を見て、戻らなかったらノアに相談してみよう」
「だな。……とりあえず、お疲れ様。今日も『ここ』で寝るか?」
冒険者がぽふぽふと自身の胸を叩く。即答するのも気恥ずかしく悩むふりをしたが、グ・ラハの心は最初から決まっていた。
「……よろしく、たのむ」
昨日と同じく、冒険者に全身を包まれながら横になる。
「怪我は痛まないか?」
グ・ラハは気遣うように冒険者の腹を撫でる。それが快かったのか、彼の喉はごろごろと気分良さそうに鳴った。
「ああ。もうなんともないぞ」
「よかった……。にしても、やっぱりあんたはすごいな。術を破って動けるなんてさ」
アラグの洗脳は強力だ。冒険者の精神力に改めて感心した。なにより、グ・ラハが忌避していた強制力に打ち勝ってくれたことが嬉しかった。
「さっきのは、まあ、同じ想いだったからな」
冒険者の言葉の意味を捉えてかねてグ・ラハが首を傾げると、べろりと彼の大きな舌で頬を舐められた。
「わっ、ちょっ、あんた獣に寄りすぎてないか!?」
「ん、そうかもな。感謝の印だと思って受け取ってくれ」
そう言いながら丁寧に何度も顔を舐められる。嫌な気はしないので、グ・ラハはしばらくされるがままになっていた。
しかし下顎から首の境目までを彼の長くて大きな舌で一気に舐め上げられた時、尻尾の付け根からぞわぞわとした感覚が湧き上がった。心拍数が一気に上がる。これが何なのか思い至る前に、冒険者を止めないとまずいことになりそうだった。
「ッ、もう、十分受け取ったからっ……!」
「なんだ、もういいのか」
残念そうにしながらも冒険者はグ・ラハを解放した。
『元の姿に戻った後、獣の仕草をしないよう気をつけた方が良いぞ』とグ・ラハはため息をつきながら彼に言い含めた。
「……グ・ラハ。改めて、ありがとう。それと、手間かけさせて悪かった」
感謝と謝罪の言葉と共に腰を引き寄せられ、彼の鼻先が目の前に迫る。
考えるより先に、体が動いていた。
グ・ラハは先ほどのお返しとばかりに冒険者の湿った鼻をぺろりと舐め、いちばんの笑顔を見せた。
「いいんだ。久しぶりにあんたとずっと一緒にいられて、嬉しかった」
ちょっと不謹慎だけどな、と早口で付け足し、冒険者の胸元に熱くなった顔を埋めた。
穏やかな笑い声とともに、冒険者のふさふさとした尾がグ・ラハの尾に触れた。グ・ラハは応えるように尾を絡ませる。
ふたりは互いの体温を感じながら眠りについた。
翌朝。グ・ラハが目を覚ますと、眼前に肌色の逞しい胸板が飛び込んできた。
「は……!?」
がばりと飛び起き、改めて隣を見る。そこには、一糸纏わぬ姿の冒険者が横たわっていた。
通常であれば、変化が解けた後は装備や服も一緒に戻るはずである。それが解除後全て失われるという仕込みに、この罠を作ったどこぞの天才科学者の意地の悪さが窺えた。
グ・ラハは慌てて冒険者を起こし、現状を説明する。彼は掛け布団を腰に巻きつけ、『外に出てから解けなくて良かったな』と苦笑していた。
「あんたはここで待っててくれ。間に合わせになるがモードゥナで服を買ってくる」
そう言った後しばし様子を見たが、先日のように冒険者がグ・ラハを制止することはなかった。洗脳効果も完全に解除されているようだ。
「うん、ノアに相談する必要はなさそうだ。本当に良かった……」
その後服を調達し、冒険者と共に塔を出てノアに報告と協力への礼を済ませた。今朝のことを話すと、彼女はからからと笑っていた。
そうして、日常に戻る時がきた。
「……オレはオールド・シャーレアンに戻るけど、あんたはこれからどうんだ?」
「そうだな……なくなっちまった分の装備を調達したら、またオルト・エウレカに潜るかな」
とんでもない目に遭ったというのに、昨日の今日で挑むのか。そんな冒険者に呆れ半分、尊敬半分の気持ちでグ・ラハは曖昧に笑った。
「今度は変な罠踏むなよな」
「ああ、しっかり壁際を歩いていくよ」
それじゃあ、と手を挙げふたりはそれぞれの道を歩き始める。
グ・ラハは振り返り、自由を纏った冒険者が軽い足取りで前に進んでいくさまを、微笑みながらしばらく見つめていた。